登頂準備

斜面を行く

12月24日、朝起きてコーヒーを沸かし、朝食をとった。体調良好、天気も良好。他の日本人たちに話を聞くと、ここで何日か過ごし高度順応をしている人もいるようだった。そんな話を聞き、僕もここで一日くらい順応に費やすべきか、このままC1まで荷揚げするか迷った。でも、体調も良く、天気も良いので、ここにとどまる理由が見つからないので、とにかく荷揚げのための荷物を持って行けるところまで言ってみることにした。持っていくものは、食料、アイゼン、防寒具だ。
 準備を整え、8時半の出発となった。この時期だと、6時くらいから明るくなるが早朝はかなり寒く快適に活動できるのは9時過ぎからだ。今日の目標は、調子が良ければニード・デ・コンドル(C1)、そこまでたどり着けなければキャンプアラスカ、そこまでも行けなければ、荷物をデポしないで引き返してくるつもりだ。ロスプキオスのテントの裏の雪渓から登り始める。数十メートルの雪渓を超える前にすでに息が上がっている。上を見上げると大斜面が続き、道は大きく蛇行していた。その斜面の所々に小さく見える人の姿が確認できた。数百メートル先にいる三人組は、プラザ・デ・ムーラスであった日本人のようだ。雪渓を抜けたあたりから、道は幾通りかに分かれていた。僕は、なるべく斜面に対して勾配の緩い道を選びながら歩き続けた。二時間くらい歩いたところで、三人組の日本人にに追いついた。水戸の先生の集まりだそうだ。今日は、ニード・デ・コンドルに泊まり、明日ベルリンにC2を作ってプラザ・デ・ムーラスに戻ると言うことだった。自分と違い計画的な登山に感心した。さらに1時間くらい歩いたところでキャンプアラスカについた。風邪がもの凄く強い。それに、かなりの傾斜地だ。とてもじゃないが、ここでテントを張る気になれない。時間は12時を過ぎていたので雪渓を行く、岩陰に這い蹲るようにして風をしのぎ、スニッカーズを一本ほおばった。
 その後は、勾配は緩くなり、雪渓の上を1時間ほど歩いてニード・デ・コンドルについた。ニードでコンドルは広く、あちこちにテントが張ってあったがみな思い思いの場所に張っているのでテントの密度は感じない。風は相変わらず強く、どこかに風をしのげる場所はないかと探デポした荷物し回ったが結局どこも一緒で入り口近くの岩の陰に荷物をデポすることにした。荷物は、大きなビニール袋に入れ、そこら中の石を集め山にして埋めた。
 作業が終わり、2時半に下山を始めた。下り始めたときに、例の三人組が現れ「明日元気があれば、また登ってきます。」と挨拶して下山した。帰りは早かった。苦労した急斜面も、富士の犬走りのように走るように下れた。登りは5時間以上かかった道も下りは2時間ほどだった。
 その夜、夕食を済ませそろそろ寝ようかと思ったときにいきなり外で花火のような音がした。「ドン、ドン。」と言う感じだ。それと同時に、たくさんの人の歓声が聞こえてきた。何なんだろうと思ったが、よくよく考えてみると今日はクリスマスだったのだ。しばらくしてから、また花火があがった。外に出て見て見たがったが、音がしてから顔を出しても間に合わない。かといって、外で待っていても何時花火が上がるのかわからない。そんな感じで、1時間ほどの間に4,5回花火が上がったが結局見ずに終わってしまった。
 その夜は、体調が良くクリスマスの花火に気をとられていたこともあってか、油断してしまい薬と水飲を飲まずに寝てしまった。そのために高度障害の影響が出たのかどうかは分からないが、その夜妙な夢を見た。内容は、「自分の仕事の検査をどういう訳か俵光太郎がやっていて、またどういう訳かバイトの女の子が検査されている僕の目の前で俵光太郎とタメ口をきいていたり」とか、「全然知らない人のパーティーに入って盛り上がってるんだけど、どういう訳か職場の若い人が料理を作っ振り返り見たアンデスの山ていて、僕に野菜を使って金魚を表現してみました、と自慢げに話したりする」と言った訳の分からないものだった。
 12月25日、昨夜の妙な夢は高度障害の影響なのだろうかなどと考えながら食事の準備をする。キリマンジャロに登ったときに歩きながら夢を見たことを思い出したのだ。もしそうだとしたら、今日こそ休息をとった方が良いんじゃないかとも考えた。でもだめだった、食事を取り終わるとそんなことは忘れてしまい、荷物をまとめてテントの撤収の準備を始めていた。
 ここから先は、プラスチックブーツだ。登頂するまではここには戻ってこないつもりだった。これより上で必要のない荷物をロスプキオスに預けそのまま雪渓を登り始めた。9時半の出発だった。昨日よりは、荷物が重いはずだが呼吸は少し楽になったような気がする。順調に雪渓を抜け大きな斜面を蛇行しながら登り続けた。2時間ほど歩いた頃には、荷物の重さがジャブのように効いてきて歩く速度もかなり遅くなってきた。そのころ、上から昨日すれ違った水戸隊が現れた。高度純化がうまくいったのか、昨日よりかなり元気そうに見えた。予定どおりベルリン小屋までいって下りてきたそうだ。
 しばらくして、キャンプアラスカについた。その日も、そこで一休みしスニッカーズを一本ほおばった。風は昨日ほどではなかったので少し長い休憩をとった。そこで休んでいると、下から一人の日本人が上がってきた。さっきの、三人組のリーダーだそうだ。隊員の一人が高度障害で倒れ、プラザ・デ・ムーラスからヘリでプエンテ・デル・インカまで連れて行き、ムーラでここまで登り返してきたと言っていた。
 キャンプアラスカをあとにし、ニド・デ・コンドルについたのは16時だった。結果的に、昨日より一時間ほど多くかかってしまった。しかも、やや頭が痛い。デポした荷物は無事だった。自分のデポした荷物のすぐ近くに昨日はなかったはずの荷物が二つあったが、気にせずテントの設営を始めた。風が強く一人での作業に難儀した。作業をしているうちに頭痛がひどくなってきた。やはり、今日は下で停滞すべきだったかと思ったがいまさら仕方がない。なんとか、テントを立て終わった頃に隣の住人が一人現れた。日本人の単独登山者で、多鹿君という若者だ。プエンテ・デル・インカからムーラを使わずに来たという強者だった。彼の話によると、もう一組の隣人も日本人だということだったが、その日は現れなかった。
 テントの設営が終わり、水を作ることにした。雪渓から、雪をかき集めてきて少しずつコンロで溶かすという作業だ。雪が堅く、結構大変な作業となった。コッヘルをスコップ替わりにして集めていると、コッヘルが変形してしまった。集めた雪をテントに持ち帰り、溶かすのにもかなりの時間を要した。何とか、3.5リットルの水を作り終えテントの外に出てみると、多鹿君のテントができており、四隅から2本づつ8本のロープで固定されていた。自分の4本ロープよりかなり堅固な感じがする。雪も10kg以上はあろうかというぐニド・デ・コンドルから見たアコンカグアらい集められていて、テントの中からコンロの音が聞こえてきていた。世界一高いところにいる野良犬とマイテント
 あらためてニド・デ・コンドルを見渡すと、それはかなり広い平地だった。テントは、それなりにあるのだがそれぞれの人が風をさけようと思い思いの場所に張っているので、密集した感じはなく閑散としていた。人はほとんど出歩いていないで、時折トイレに立つ人が歩いていたり、ぶらぶらと高度純化のために歩いている人を見るだけだった。そんな中に、驚いたことに一匹の野良犬がいた。後で聞いた話によると、プラザ・デ・ムーラスとニド・デ・コンドルの間を行ったり来たりしながら登山者から餌をもらって生きていると言うことだった。きっと、世界一高いところに住む野良犬だろう。
 その夜は、頭痛がひどくなったのと寒さのためほとんど眠れなかった。一晩中、飲めるだけの水を飲み続けたがだめだった。結局、眠りにつけたのは翌朝日が昇り少し暖かくなった9時を過ぎてからだった。言うまでもないが、その日は、その時点で停滞を決心していた。順調であれば、高度順化を兼ねてベルリン小屋まで荷揚げをするつもりだったがそれどころでなかった。ただひたすら、体が慣れるのを待つだけだ。
 12月26日、9時頃ようやく眠りにつけて目が覚めたのは昼過ぎだった。頭痛は少し収まったが、まだまだ具合は悪い。何もせず時間を過ごしていてもしょうがないと思い、少しずつ活動することにした。まずは、水作り。昨日作った3.5リットルはほとんど飲んでしまった。ひどい二日酔いのような状態で作業をしているのでなかなか効率が上がらない。水を作り終え、無理矢理食事を済ませ、外に出た。風が強く、テントがとばされそうだったのだ。隣の、多鹿君のテントを見習い、自分もテントを補強することにした。ロープを4本から8本に増やし、石を集めロープの重しにするという作業だ。単純な作業だが、頭が痛く体が重い状態では非常につらい作業だった。石を運んだり、ロープを結んだりするたびに「はぁ、はぁ。」言いながら一休みしなければ次の作業に移れない。結局その日は、水作りとテントの補修で一日が終わった。
午後から、テントで寝ているともう一組の隣人が現れた。多鹿君との会話で日本人であることは解った。テントから顔を出そうかと思ったがまだ頭痛が残っており、それすらの元気もでなかった。そうして、水とトイレと寒さとの戦いの夜に突入した。
 12月27日、朝、爽快に目覚めることができた。外に出て歩いてみても息があがらない。体も軽く感じる。自分の体が高度に対して強いのかどうかは解らないが、人間の体ってすごいんだなと感じた。犬小屋のようなベルリン小屋
 体調がよくなったこともあり、その日はベルリン小屋まで高度順応であがってみることにした。朝飯をすませ、テントを出ると新しい隣人がテントの外でかまどを作っていた。春日井から来ている男性一人、女性二人の3人組だそうだ。コンロの調子が悪く、昨夜テントの中で燃料が吹き出してしまったらしい。3人のうちの一人が、その日したからあがってくれば何とかなるということだったので自分のコンロを貸してあげることにした。
 ベルリン小屋へは、2時間ほどでついた。最初、小さな小屋が二つ並んでいるが目に入った。入り口に、扉がなく、まるで犬小屋のようなつくりだ。すごく意外だったが、これだけの標高に小屋を造るということを考えると仕方がないのかと納得した。ところが、もう一段(10〜20m位)あがったところに、もう一つりっぱな小屋が建っていた。これには、丈夫そうな扉もついていた。そこからは、アコンカグアの山頂もよく見えた。
 ベルリンで一休みした後、体調もよかったのでもう少し上まで行ってみることにした。ベルリンから上は、勾配もきつくなり風も強かった。体調には問題なかったが、強風に行く手を阻まれ、高度計で、6,000m位のところまであがって下りることにした。
 下りながら、今後の計画のことを考えていた。キャンプ・ベルリンまでテントを上げて、そこからアタックするつもりだったが単独行動でそれをやるのはかなりつらいと思い始めていた。体調はよくなっが、睡眠不足がつずいて体力が奪われているの自覚していたからだ。空身で2時間で歩けると言っても、この高度では荷物を担いだ時の負担が下界とは全く違う。体力の消耗から、アタック前に一度プラザ・デ・ムーラス間で下りて、ロッジに一泊したかった。ベルリンまでテントを上げると、プラザ・デ・ムーラスの行き来が大変になる。ニド・デ・コンドルから直接アタックする人もたくさんいるらしい。現に、多鹿君もそうすると言っていた。そんなことから、その日はニド・デ・コンドルまで戻って、そのままプラザ・デ・ムーラスまで下り、一晩ゆっくり休んで、明日ニド・デ・コンドルまで戻り、明後日登頂アタックするという計画にした。
 ニド・デ・コンドルまで下る途中、春日部隊の永田さん、単独の多鹿さんとすれ違い、その夜テントを空けることを告げた。二人とも、体調は良さそうだった。ニド・デ・コンドルで荷物を整ホテル レフヒオ理してすぐに出発した。持って下りるのは、シュラフとポリタンと行動食だけにした。途中で水戸隊ともあった。もしかすると、同じ日にアタックするかもしれないことがわかり勇気づけられた。
 プラザ・デ・ムーラスにつくと、ロスプキオスに立ち寄りろ荷物を整理して、ロッジに向かった。そのロッジは、ニド・デ・コンドルからさらに30分ほど歩いたところにあった。プラザ・デ・ムーラスでは、唯一の宿泊施設で「ホテル レフヒオ」という石と大きな丸太で出来たがっちりした建物で、世界一高いところにあるホテルであると誇っていた。ホテルにはいると暖かいお茶とクッキーでもてなしてくれた。部屋には、いくつかのランクがあったが迷わず一番安いドミトリーに入ることにした。その部屋は、そこの従業員が寝泊まりしている屋根裏部屋のようなところだったが、ベッドと毛布があり建物も、建物もしっかりしているのでニド・デ・コンドルのテントとは雲底の差である。なんと言っても、酸素の濃さが一番ありがたい。食事も、暖かいスープにステーキが出てすばらしかった。クリスマスのために焼いたケーキがサービスで出たのはうれしかった。
 その夜は、いつになく風が強かった。丈夫なロッジでさえ大丈夫かと思うほどだ。建物に風が当たる「ゴォー、ゴォー。」という音が一晩中続いた。ニド・デ・コンドルに残してきたテントが心配になったが、今更しょうがない。とにかく、その日は余計なことは考えずに体を休めることに専念した。ドミトリーのベッドは快適で朝まで熟睡できた。 

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