12月21日正午過ぎ、いよいよ登山の開始だ。オルコネス湖にあるアコンカグア州立公園のパークレンジャーの小屋
で許可証のチェックを受ける。そこで、マジックで番号の書かれたビニールのゴミ袋を受け取り、下山時にここまでそれを持ち帰るか、ムーラの会社の人からゴミを持ち帰ったことを証明してもらうサインをもらわなければならないらしい。
レンジャーのチェックも終わり、今日の目的地コンフルエンシアに向けて歩き始めた。正面には、下調べで何度も見たアコンカグアの南壁がそびえている。オルコネス湖は小さく、湖と言うより池のようだった。ただ、湖の周辺だけが草地になっていてアコンカグをはじめ周
りの山々の展望もよくアルゼンチンの人たちの憩いの場にもなっているようだった。
歩き始めたのはいいが、体がどうも重い。これまでの疲れがどっと出たようだった。考えてみれば、18日に美深を出てからほとんど乗り物に乗っていた。しかも、海外一人旅の緊張の連続だ。夕べも、ホテルだったがほとんど寝れなかった。日本時間では、今は深夜の1時前。体が重いはずだ。
歩き始めて10分。このままではまずいと思い、とりあえず昼食を兼ねて長い休憩をとることにした。パンに、ハム、ソーセージ、と生野菜をきざんだものを挟んでマヨネーズで食べた。最初のうちだけの贅沢な行動食だ。食事を済ませ、少し横になった。相当疲れているらしい。
1時間ほど休憩をとり、また歩き始めた。コンフルエンシアまでは、4時間ほどの道のりのはずである。いまは、10時位まで明るいので何度休憩をとっても大丈夫だろ。道は、オルコネス湖周辺の平坦な地形から、国立公園の看板のある吊り橋を渡ったあたりから、川沿いの登り道に変わった。すでに、植物のほとんどない荒涼とした道に変わっている。依然身体が重い。後から来た人に何度も追い越されながら登った。汗の出方も異常で、脂汗で身体がびっしょりになってしまった
。まだ、3,000mを少し超えたところだというのに、高山病の兆候である頭痛も始まった。これまで、4,000m以上に3度上がっているがこんな標高で頭痛が始まったのは初めてだ。途中30分以上の休憩を3度とって、やっとの思いでコンフレシアに到着した。4時間の予定が、6時間もかかってしまった。
キャンプサイトの入り口に建っていたパークレンジャーのテントで許可証のチェックを受けキャンプサイトの入った。思った以上にたくさんのテントが張ってあった。通路の谷側に並ぶ大きなテントは、ムーラの会社のものらしく、そこで食事も出来るらしい。キャンプサイトの真ん中あたりに手頃な空きスペースを見つけ、急いでテントを立てた。水場は、キャンプサイトを横切っているホースの先にあった。そこで、飲めるだけの水を飲み、ポリタンク一杯に水をくみテントに戻った。高山病には、とにかく水をたくさん飲んでおしっこをたくさん出すことが効くのだ。高山病予防薬のダイナモックスもいつもより多めに飲んだ。その日は、夕食をとる気力もなく直ちにシュラフに潜り込んだ。そうとう疲れていたのか、シュラフに入った瞬間に熟睡だ。その後、夜中に何度かトイレに立ち、そのたびに水を飲めるだけ飲んだ。
翌朝は7時目が覚めた。気分はだいぶ良くなったが、頭はまだ少し痛い。そのまま、8時頃までシュラフの中で横になり、朝飯の準備を始めた。朝飯は、ソーセージ入りラーメンライス。食欲は、完全に復活していた。朝飯を食べ終わった頃には、頭も今までの痛さが嘘のようにすっきりしていた。どうやら、一回目の峠は越えたようである。
夕べの予定では、今日はここで完全停滞せざる終えないと思っていたが、朝食を終え頭もすっきりしたので高度順応のために南壁のベースキャンプ(4,200m)まで行ってみることにした。出発は9時。メンドーサの山道具屋のおやじは、2時間で上れると行っていたがキャンプサイトの看板には5時間と書かれていた。自分の体調を考えて無理しないぞと自分に言い聞かせて上り始めた。歩き始めてみると、昨日とはうって変わって快調に歩くことが出来た。最初に急な登り
が続き、しばらくするとなだらかなアップダウンに変わっていった。途中で何組かのパーティーを追い抜きながら3時間ほど歩いたが、ベースキャンプにはまだ着かないようだ。標高も4,000mを超えていて、人気もなくなってきたのでそろそろ戻ろうかと思ったときに、前方に人が下りてきているのが目に入った。やはり、あそこまでは行ってみようと思った。しばらくして、その人たちとすれ違うときにベースキャンプまで行って来たの?と訪ねてみるとどこがベースキャンプなのか分からなかったといって下りていった。どうしようと思ったが、GPSで標高を確認すると、4,100m。もう少しで南壁ベースキャンプの標高だ。前方にまた人影が見えたので、とにかくあそこまで行ってみることにした。
前方の人影は上に向かって登っているようだった。しばらく歩くと岩陰に見えなくなった。さらに、歩き続けると前方にいた人がこっちに向かって歩いてくるのに気づいた。すれ違うときに、ベースキャンプのことを聞いてみたが、その人も分からずに下りてきたらしい。標高を見れば、すでに4,200mを超えている。二人で、話して近くに見える平場がそうなんだろうと納得することにした。その後、その人はそのまま下山し、僕は5分ほど休憩をとって下山した。
下山は、その人と抜きつ抜かれつで3時間でコンフルエンシアに着いた。結局、登り5時間下り3時間の行程となったが、体調はものすごく良かった。
コンフルエンシアに着いてからは、まっすぐテントに入り、夕食を取り、明日に備えてたっぷりの水を飲んで早寝した。
12月23日、ベースキャンプのプラザ・デ・ムーラスに登る日だ。昨夜も、何度かトイレに立ったが睡眠は深かった。朝起きて、ラーメンライスを腹一杯食べ8時半に出発した。出発して、すぐに橋を渡り50mほどの段丘っぽいところを登ると、広々とした沢地形になった。この先、同じような地形を延々と歩くことになる。途中何度か川を渡らなければならなかった。川を渡るたんびにどこで渡ればいいかと行ったり来たりしながら悩んだが、結局足が水に着くことになってしまった。沢からは、アコンカグアの南壁が見えている。自然気持ちが高まっていく。さらに進むと、幅広の沢の正面遙か向こうにに大きな岩山が見え始めた。長い時間をかけてそこまで行くと沢はそこで分かれていて、登山道は右側の沢沿いにつていた。そこからは、沢も切り立った狭いものとなり登山道も急になる。標高もすでに、4,000mを超えている。身体は快調だが、標高のせいか少し動きが鈍くなったいる。わずかな登りでも、苦しさは5割り増しだ。その登りの手前で、今日2度目の大休憩をとった。すでに、登り始めてから7時間ほど経っている。
抜きつ抜かれつで登ってきた白人の単独女性もそこで座り込んでいた。
スニッカーズを一本食べ、水を飲めるだけ飲んで川で水をくみ歩き始めた。単独女性に「オラ」と笑顔で挨拶すると、「オラ」と笑顔が返ってきたがそうとう疲れているようだった。その後、急登が続き何度か風で深い溝がたくさん出来た雪渓を超えていき広い扇状の地形を登り切ったところに廃屋が建っていた。旧プラザ・デ・ムーラスのようだ。屋根も、ほとんどなくなっていて壁だけで何とか建物だった事が分かる。そこをすぎ、死んだムーラの白骨を横目にしたところに急な登りがあった。GPSでももう少しでプラザ・デ・ムーラスだと示している。きっと、ここを登り切ればプラザ・デ・ムーラスに違いないと思い登りつづけた。頭痛はないが、身体が重い。わずかな登りでも息が上がる。ゼエ、ゼエいいながら何とか登り切ったがそこにはプラザ・デ・ムーラスは無かった。それどころか、せっかく登ったのにまた下りだ。がっかりしながらも、したまで下り、小さな川を越えて登り返し、さらに少し歩いてようやくプラザ・デ・ムーラスに到着した。午後7時だったので、朝コンフルエンシアを出てから11時間半の行程だったと言うことになる。
プラザ・デ・ムーラスにはムーラ会社の大きなテントがいくつかあり、その周りに登山者の小さなテントがたくさんあると言う構成で出来ていた。自分のロスプキオスという会社のテントは、ニード・デ・コンドルへの登り口の脇にあり最もいい場所に陣取ってるようだ。そこにいた女性に100ドルを支払い自分の荷物を受け取った。表に出て、テントを張る場所を探していると、ロスプキオスの周りに日本人のテントが多いことに気づいた。後で分かったことだが、メンドーサに増田さんという方が居られて、日本人のアコンカグア登山者の面倒を見られているといことで、その方とロスプキオスに関係があり、ロスプキオスには日本人が多いと言うことだった。
とにかく、目に付いた日本人に挨拶し自分のテントを立てた。その日は、かなり疲れていたこともあり、すぐに夕食を作り寝ることにした。夕食後は、相変わらずたっぷりの水を飲んで寝た。その後、いつものように数回トイレに立つことになる。